ビルシャナ異聞 〜平家夢想〜
※if設定のお話となります。
本編のネタバレを含みますので閲覧にご注意下さい。
一
朝から降り続いた雨は昼過ぎに止んだ。
雲は散り、若草に雨の雫が露の花を咲かせていた。雨上がりは、広い庭に土の香りが煙る。遮那はこの匂いが好きだった。心が落ち着き、瞬きの度に眠気が訪れる。
ふと、そんな土の匂いに伽羅の香りが混じった。
「遮那、何してるの?」
「おや、今日は珍しく部屋で大人しくしているのだね」
声に顔を向けると、雅やかな直衣に身を包んだ二人の公達――知盛と重衡が部屋へと入ってくるところだった。
「書を読んでいた。雨で外に出られなかったからな」
そう答える遮那を挟むようにして、知盛と重衡は当たり前のように両隣へと腰を下ろす。
「ふふ、流石の我が従妹殿も雨ではね」
遮那の長い髪を掬いながら知盛が言えば、
「でもお前、姫君っていうのは滅多に外に出ないのが普通なんだぞ」
重衡は遮那の肩にもたれかかりながら顔を覗き込んだ。
「姫君か……」
その言葉は、未だ胸にしっくりくるものではなかった。
平治の乱以降、隆盛を極め続ける平家。その平家の棟梁である清盛がある日突然、自分の姪だと、ひとりの姫君を邸へ連れ帰ってきたのは今から二年前のことだった。
それだけでも大騒ぎだったというのに、聞けばその姫の母は清盛の同胞(はらから)の妹君とのこと。清盛に同母の妹がいたこと自体、平家の誰も知らないことで一族は慌てふためいた。妹君は姫を生んでまもなく命を落とし、姫は託された者の手により近江の山奥でひっそりと育てられていたという。だが姫が十四の時にその養い親が亡くなり、回りまわって姫の存在が清盛の耳へと入ったのだ。
本当に姫が清盛の姪なのか、一族の中にはその素性を疑う者もいた。しかし、姫の姿を一目見た清盛が、妹の子で間違いないと断言し人前もなく涙したのだ。
元より清盛に意見出来る者などおらず、ましてやそのような棟梁の姿を見るのも初めてだった一族は、なおさら何も言えなくなった。こうして姫――遮那は平家の棟梁たる清盛の邸へと迎え入れられたのだった。
「私はこれまで山奥で育ってきたんだ。姫君という柄ではない」
重石のような立派な着物に目を落としながら、遮那は音のない息を吐いた。
「まったく。お前ってば、口調も男みたいだしね」
やれやれといった風な重衡とは対照に、知盛はくくっと喉を鳴らして笑う。
「世の姫君とは違うところが、遮那の良いところだよ」
平家の、しかも棟梁に近い血を継ぐ子でありながら、山奥で育った遮那はおよそ平家の姫とはかけ離れていた。日頃より、この世の春を謳歌し貴族化してゆく一族を冷ややかに見ていた知盛の目には、そんな遮那の存在がひどく面白く映っていた。
「もったいないなぁ。見目はこんなに良いのに」
輪郭を確かめるように、重衡の白くて長い綺麗な指が遮那の頬を滑る。唇のすぐ傍で手を止めると、親指の腹で優しくさすった。
「重衡、くすぐったい」
「くすぐってるからね」
遮那がわずかに身をよじる。それでも手を止めるでもない重衡が目を細めて遮那の反応を楽しんでいると、反対側から知盛が腕を伸ばした。
「平家らしからぬところは見ていて面白いが、あまりに世間知らずというのも困りものだね」
遮那の腰を抱くや、重衡から剥がすように己の胸へとぐいと引き寄せる。そして、顎に指をかけて視線を自分へ据えさせると、顔を寄せて蕩けるような甘い声で囁いた。
「姫君、そなたにはもう少し教えて差し上げなければならないことがありそうだ。例えば、そのような可愛らしい顔は、簡単に世の男に見せてはならない……とかね」
色の白い整った目鼻立ちがすぐ目の前に迫る。長い睫毛に縁取れた美しい瞳が遮那を捕らえて離さなかった。
己の腕に閉じ込めて、頬を赤らめた遮那を独り占めする兄に、重衡が抗議の声を上げかけたその時、
「おい、何をしているんだ。そいつを離せ」
肩を怒らせた教経が背後に立っていた。立ち上がらせるようにして、遮那の腕を強く引っ張り上げると、庇うように背に隠した。
「あっ、教経! 遮那を返せよ」
「断る。お前たちは遮那にべたべた触り過ぎだ」
「おや、人聞きの悪い。これは愛情表現だよ」
口ではこの厄介な兄弟には敵わない。それを嫌という程知ってる教経は二人に背を向け、無理やり本題へと入った。
「そんなことより遮那、雨は止んだぞ。これから鍛錬しないか?」
「ああ、しよう……!」
勢い勇んで答える遮那に、険しい顔をしていた教経も思わず笑みをこぼした。それを重衡は苦々しい顔で見る。
「雨が上がった途端に鍛錬だなんて、これだから武芸馬鹿は。それに喜んで付き合う遮那も、相当変わってるよ」
「だが、私は物心ついた時より刀を教えられてきたからな。これが普通なんだ」
「俺も女が剣術とは初めは驚いたが、遮那の腕前は相当のものだ。平家の武将にも引けを取らない」
「ありがとう教経。お前の腕もかなりのものだろう。私はお前と打ち合うのが好きだぞ」
にこやかに告げる遮那の言葉に、教経は顔を赤くした。目を逸らして口を開く。
「そ、そうか。なら早く支度をしてこい。俺は先に庭に下りているからな」
「ああ、待っていてくれ」
弾みのついた毬のように軽やかに回ると、香の匂いをわずかに残して遮那は御簾の向こうに消え去った。
「あーあ、行っちゃった。教経に上手くやられたな」
「なんだそれは。俺は単に遮那と鍛錬をするだけだぞ」
「そういう口実が一番厄介なのだがね」
「口実だと?」
「違うの? 遮那と一緒にいたいから鍛錬するんでしょ?」
「そんな訳あるか! まったく、お前たちには付き合いきれん!」
二人を睨みつけると、教経は見返りもせず部屋を出て行った。
「あーあ」
再び重衡が声をあげる。すると、出て行った教経と入れ替わるようにして、どたどたと廊を足早に渡ってくる足音が響いた。その聞き慣れた音に、知盛と重衡は思わず顔を顰める。
「知盛! 重衡! 邸に来たのなら儂のところへ顔を出さんか!」
怒号と共に慌ただしくやってきたのは、平家の棟梁でありこの邸の主でもある清盛だった。清盛は常より何かに怒っており、それを隠そうとも抑えようともしない。今も、目の前にいる息子二人に向けて次の怒声を上げんばかりの勢いだったが、
「これは父上。ちょうどこれからお伺いしようとしていたところですよ」
そんなつもりは微塵もない知盛が、涼しい顔でしれっと言ってのけた。
「まったく白々しい」
怒るのも馬鹿馬鹿しいという風に、清盛は荒々しく息を吐いた。こうした知盛の本心を隠そうともしない飄々とした態度は、清盛の怒りを白けさせるのだった。
「ふん、どうせ今日も遮那のところへ遊びに来ておったのだろう。おぬしらときたら、暇さえあれば姫に会いに来よって」
「従妹なんだからいいじゃん」
「ええ、可愛い従妹の様子がつい気になってしまいまして。ですが、この気持ちは父上にもよくおわかりでしょう?」
清盛は平家に迎え入れた遮那のことを、我が娘のように溺愛していた。目に入れても痛くない程の可愛がりようで、蝶よ花よと育んでいたのだった。
「確かに儂は遮那が可愛くて仕方ない。だが、おぬしらが気にして構う必要はないであろう。そんなことせずとも、儂はちゃんと姫が幸せになるための算段をつけておるのだからな」
「幸せ? なにそれ?」
きょとんとした顔で問う重衡の隣で、知盛はいささか眉をひそめた。そんな二人などには目もくれず、清盛は笑みを顔中に広げる。
「無論、帝の寵愛を受け世継ぎを生むこと。それこそが最大の幸せであろう」
重衡の目が二倍ほどにも見開いた。知盛は先ほどよりも眉間に皺を寄せている。無論、息子二人の様子を気にも留めない清盛はなおも嬉しそうに続けた。
「そのために、儂は近々遮那を入内させるつもりでおるのだ」
「はああああああ!? 入内!?」
思わず素っ頓狂な大声を上げた重衡に、清盛は笑みから一転恐ろしい形相となる。
「文句でもあるのか! 儂は本気じゃぞ! そのために朝廷に働きかけをし、遮那には中宮となるべくあらゆる教育を施しておるのだからな」
意気揚々と語る清盛は、それが遮那にとっての幸せだと信じて疑っていない。このような、清盛の周りが見えていない暴走は日常茶飯事であるが、それを知盛はいつもどうでもいいと流している。自分だけ害が及ばぬよう最低限の動きをするのみだった。
だが、今の彼は父の暴走を看過することは出来なかった。胸に広がる不快感を鎮めるため、ひとつ息をつき口を開いた。
「父上、それは浅はかというものではありませんか? 帝の中宮は徳子です。二人の間には安徳天皇という立派な世継ぎもおります。そんなところへ姫を嫁がせて、幸せになれるとは到底思えませんが」
「ぬ……それは……」
「帝の寵愛をめぐって、女たちが熾烈な争いを繰り広げるのは世の習い。それとも父上は、娘である徳子と、姪の遮那がそのようにぶつかり合ってもよろしいのですか?」
誰の意見にも耳をかさず激情のままに動く清盛であったが、いつもならば自分がどのような無茶苦茶なことを言っても、他人事と言わんばかりに涼しい顔をしている知盛が、真向から意見してきたことに驚き、何も言い返すことが出来なかった。わずかに唸るような声を上げるがそれすらも知盛に抑え込まれる。
「それに、いくら中宮としての教育を施しているとはいえ、遮那の気質的に宮廷の暮らしは難しいでしょう。気づまりして、下手をしたら臥せてしまうかもしれませんよ」
「そうそう、あいつは中宮なんて柄じゃないよ。なんたって山育ちだからね。今だって教経と鍛錬しに行ってるし」
重衡が合いの手を挟むと、清盛は目を瞠った。
「鍛錬!? またか……っ!」
姫君が鍛錬などと、今にも怒りが激発しそうな清盛だったが、それでも遮那にはっきり駄目だと言えないでいるのは、やはり清盛が溺愛している遮那に甘いからであった。実際、今この場に遮那が現れたら、面上一杯の憤懣(ふんまん)を一瞬にして霧散させ、目も頬も緩ませて上機嫌になるのが目に見えている。
清盛は言葉にし難い苛立ちに呻きながら、
「おらぬか! 教盛! 教盛っ!」
大声で遠くへ怒鳴ると、どたどたと廊へと出て行った。
「あらら、教盛叔父上もとんだとばっちりだね。教経の代わりに怒られるんだろうな」
教経の名前を出したのは自分だと言うのに、重衡の顔に申し訳なさはこれっぽっちもない。あるのは、煩い父親がいなくなったことに対する安堵のみだ。
だが、隣に座る知盛の顔にそのような安堵の色はなかった。胸に残る不快感に眉をひそめたまま、庭へと視線を流した。
二
支度を終えた遮那が縁のきざはしから庭へ下りると、教経は桂の立木の下で待っていた。
遮那は先ほどの重々しい姫装束から身軽な袴姿となり、髪を高く結わえていた。その姿はまるで少年のように見える。
「悪い。待たせたな」
「いや、平気だ。急に誘ったのは俺だからな」
気遣うように教経が言うと、
「嬉しかった。雨で退屈だったんだ」
そう微笑む遮那の顔は、まさに雨上がりに陽を受けて咲いた花のようだった。
戦では戦況に応じて瞬時に対応し勇猛果敢に戦う教経だったが、遮那のこうした笑顔を見ると、どうしていいのかわからずもどかしい気持ちでいっぱいになった。
今の遮那は女らしい姫の恰好をしておらず、まるで下働きの少年のような姿をしているというのに、そんなことは教経には微塵も関係なかった。むしろ、地味なその装いが遮那のそのままの魅力を顕わにしていて、教経にはことさら眩しく見えたのだった。
そんな教経の動揺に気づきもしない遮那は無邪気に、
「今日は何をする?」
と、目を輝かせて問いかけるので、教経は枝垂れる枝に目を逸らして答えた。
「そうだな。今日はあまり遅くまで時間は取れないからな……」
「何か用でもあるのか?」
「ああ、言っていなかったか。今夜俺は武蔵坊弁慶を捕まえるんだ」
遮那は大きな瞳に瞬きを重ねた。
武蔵坊弁慶――それは今、京を騒がしている破戒僧の名だった。夜な夜な京の町に出没し、侍に戦いを挑み、勝てば刀を奪う。今まで一人として、刀を奪われなかった者はいないと聞く。
「どうして教経が?」
その問いに、今度は遮那の目をしっかり見て教経は口を開いた。
「奴は平家の侍だけを標的とし、昨夜も刀を狩られた。このままでは平家の名折れ。放っておくわけにはいかない。それに、どちらが先に弁慶を捕えるか勝負することになったんだ」
「勝負? 誰と?」
「源氏の末子」
「なっ!」
山奥で育った遮那でも、平家と源氏が累代の仇敵であることは知っている。ましてや平家の棟梁の邸に引き取られたのだから、源氏の話は否応なしに耳に入っていた。
源氏の棟梁・源義朝の忘れ形見は、生まれた時より鞍馬寺に預けられているそうだ。父親に似た非凡な子で文武共に優れているという噂は、今や都中に広まっていた。しかも、年は教経や遮那と同じで、そのことが教経の敵対心をなおさら刺激していたのだった。
「源氏の末子と勝負をするのか? しかも武蔵坊弁慶を捕まえるだと?」
そうだと答える代わりに、教経は好戦的な笑みを浮かべた。どのようにして勝負に持ち込んだのかはわからなかったが、鞍馬でひっそり生きる源氏の末子がそう簡単に平家との勝負を受けるとは思えない。きっと教経が無茶をしたに違いない。己を高め、武を極めんとする彼にとって、源氏の末子は何がなんでも優劣を競いたい相手であり、決して負けられぬ思いなのだろう。そうした教経の真っ直ぐさは彼の美徳であったが、同時に危うさも孕んでいた。
遮那は思案の目を宙に向けた。それから顔を教経に戻すと真剣な顔で言った。
「その勝負、私も同行する」
今度は教経が驚きに目を瞠った。
「駄目に決まっているだろう! 相手は武蔵坊弁慶、そして源氏の末子なのだぞ。どうなるかもわからない危険なところへ、お前を連れていくわけにはいかない」
「大丈夫だ。教経も私の腕は武将にも引けを取らないと言ってくれただろう。それとも、あれは嘘だったのか?」
「違う! 本心から言った。俺はお前の強さを認めている。だがお前は……」
「女だから、と言うのか?」
「!」
遮那の射抜くような真っ直ぐな目に、教経は言葉を詰まらせた。
「私が女だろうが関係ない。教経、お前は性別など関係なく私という人間をわかってくれているはずだ」
一分も疑っていない澄んだ瞳が教経の胸を突き上げる。教経は自身に向けられた彼女の純粋な信頼を裏切りたくなかった。
三
流れる雲が望月を時々かすめる。その度に、月の明かりで輝いていた鴨川の水面に黒い影が落ちた。
凍えるような夜気が、五条橋のたもとにある柳の葉をひらひらと揺らす。だが、その柳の下にいる武蔵坊弁慶は、身を切る寒さにも微動だにせず立っていた。
「――千本まで、あとわずか」
穏やかではない呟きは、雲が作った影にのまれて消えた。
その雲は流れることなく望月を完全に覆ってしまった。すると橋の向こう側は、黒い布をかけられたかのように陰って見えなくなった。
しばらくして、暗闇の中にぼんやりと白い人の姿が浮かび上がった。白い影は五条橋を真っ直ぐ進み、橋板を踏む足音だけが響いてくる。弁慶は大きな刃がついた長刀を握りなおすと、ゆらりと橋の上へと歩みでた。
近づくにつれて、その白い影が被衣を深くかぶった人であることがわかった。ともすれば女人かもしれないその姿は、とても平家の侍には見えなかった。
平家の侍でなければ用はない。弁慶が道を譲るように欄干に身を寄せようとした、その時――
「お前が武蔵坊弁慶か?」
凛とした声が闇夜に響くのと、再び流れ出した雲が月から離れたのは同時だった。
途端辺りが明るく浮かび上がる。月光を浴びる白い姿は、被衣の下からきりっとした目を覗かせた。
弁慶は、自分の大きな体躯と長刀の光を恐れぬ堂々とした姿に身構えた。
「何者だ?」
「聞いたのはこちらだ。だが、噂に違わぬその出で立ち。確認するまでもなかったな」
ばさりと音を立てて被衣が打ち捨てられる。月明りの下、完全に顕わになったその姿は美しい少年だった。化粧をしているのかと思う程、顔の色は白く柔らかい。目と同様に唇もまたきりりと張っており、女人のような面立ちの中に男らしさをしっかり保っていた。
「お前に恨みはないが、訳あって捕えさせてもらう」
三間程空いていた距離が一気に詰められた。その間に少年は太刀を抜いている。弁慶が咄嗟に石突を返し一撃を防ぐと、少年はふわりと後ろに飛んだ。自分より二回りほども小さな体から繰り出されたとはとても思えぬ打撃。そしてその身の軽さに、弁慶は狐につままれた気持ちになった。
「おぬし、よもや物の怪の類か?」
「物の怪? ははっ、面白いことを言うな。俺は鞍馬の山奥から下りて来た天狗か」
「鞍馬……?」
弁慶が訝しそうに伺ったその刹那、
「待てっ!」
大きな声に弁慶が振り向くと、橋のたもとに若者が二人立っていた。ひとりはするどい目で弁慶を睨みつけながら太刀を向けている。
「我が名は能登守教経。武蔵坊弁慶、いざ尋常に勝負せよ!」
「なに?」
因縁ある平家の公達の登場に、弁慶は目の色を変えた。だが、わずかに違和感を覚える。教経の燃えるような視線は、自分だけに注がれたものではなかった。それは、弁慶を飛び越え、何故か後ろの少年にも向けられていた。
「武蔵坊弁慶を捕えるのはこの俺だ!」
宣言するように高らかに声を張り、教経は弁慶へと打ちかかった。
「平家の公達とあらば、逃すわけにはまいらぬ!」
弁慶もまた一歩踏み出す。だが、長刀を振り下ろす前に、後ろにいたはずの少年がひらりと弁慶の前に躍り出て、教経の攻撃を受け止めた。
「弁慶を捕えるのは俺だ」
「貴様……っ!」
ぎりりと教経が奥歯を噛む。受け止められた刀を弾くと、怒りに任せて少年に斬りかかった。
捕えるべき弁慶を背にして、教経と少年の斬撃の応酬が始まる。
そんな事態を呑み込めずに立ち尽くす弁慶に近づく影があった。それは教経に同行していた遮那だった。教経たちに気を取られていたとはいえ、簡単に間合いに入られた弁慶は咄嗟に構えたが、それに臆することなく遮那は静かに口を開く。
「武蔵坊弁慶。あなたはどうして平家の侍たちの太刀を狩るのだ?」
「なに?」
「理由があるなら教えて欲しい」
弁慶は面食らった。目の前にいる若者は教経と一緒にいた。弁慶にとっては同じ因縁の平家一門だ。だが、まさか平家に刀狩りの理由を聞かれるとは夢にも思ってみなかったのだ。平家といえば、人にどんな理由や事情があろうとも関係ない。ただ自分たちの自儘な考えを押し通すのみの暴虐なる人々だ。かくゆう弁慶も、平家貴族が町人に言いがかりをつけ、斬ろうとしたのでこれを倒したところ、恨みを買い、あらぬ噂をでっちあげられた末に比叡山を放逐されてしまったのだった。
その時の理不尽な思いが怒りを伴って弁慶の胸に蘇る。道理に外れたことを平然とやってのけるのが平家だ。どうせこの若者も気まぐれで聞いているだけなのだろう。本気で自分の気持ちを汲もうとしているわけではない。普段は思慮に乏しい人間ではないが、正直すぎる弁慶だけに、そう考えるとなおさら腹が立った。
「理由など、おぬしに話すつもりはない」
「そうか」
短く応えると遮那は京の町並みに顔を移した。
「久しぶりに邸から出て驚いた。京の町はこんなにも荒んでいたのだな」
遮那が思わぬ話をしだしたので、弁慶は訝しんだ。
「これがすべて平家のせいとは思いたくはないが、人々が苦しんでいるのなら私は真実を知りたいんだ。お前が平家の侍ばかりを標的にするのにも、理由があるのなら私はちゃんと聞いておきたい」
「何を言うか。おぬしと共にやってきた能登守は、問答無用に拙者を捕まえるつもりだったではないか」
「彼はそうだが、私の考えは違う」
「そんなものは屁理屈に過ぎぬ。拙者の話を聞いたとて平家は何も変わらぬだろう。それよりもこうして見(まみ)えたのだ、その腰の太刀をもらおうではないか!」
長刀を握りなおし、弁慶は遮那へ迫った。
「どうあっても話してくれないのだな」
「くどいっ!」
大きく振りかぶり打ち込んできた弁慶の長刀を避けながら、遮那はすらりと太刀を抜いた。
「ならば致し方ない。武蔵坊弁慶、お前は平家の侍だけを標的としているが、お前のような破戒僧が夜な夜な現れるというだけで、京の民は不安に襲われている。民のためにもお前を今夜ここで捕まえよう!」
「小癪な!」
大きな声を発し、弁慶は刃を横に払った。遮那がまたもや避けると、弁慶はその図体からは想像も出来ないような速さで、真向から横から無二無三に斬りかかった。
「遮那!」
少年と斬り合っていた教経は、横目で捕えた弁慶の猛攻撃に思わず声を張った。そこへすかさず少年が打ち込む。
「よそ見をしている暇があるのか?」
「くそっ!」
合わせた刃越しに教経は相手を睨みつけた。耳には刃と刃がぶつかり合う金属音が聞こえる。遮那が弁慶と互角に打ち合っているのだ。
誰よりも自分は彼女の実力をわかっているし信じている。きっと大丈夫だ、そう己に言い聞かせる教経だったが、冷水を被せられたかのように胸に冷たいものが広がる。戦において己の命も惜しまない教経にとって、このような感覚は初めてだった。大事なものが失われるかもしれない恐怖は、安易に教経の体を縛り上げる。だが、
「うおおおおおっ!!」
縛り付ける枷を振り払うかのように教経は叫んだ。今の自分がなすべきことは恐怖に囚われることではない。目の前の相手を倒し、いち早く遮那のもとへ駆けつけることだと己を鼓舞しそれを力に変えた。
「いくぞっ!!」
鍔迫り合いに押し勝った教経は、出来た合間を下から斬り上げた。少年は素早く後ろへ飛んだが、即座に繰り出された教経の次の一刀が水干の袖を切り裂いた。
「く……っ!」
「まだまだ!!」
猛攻し続ける教経。だが少年も負けてはいなかった。教経の刀を受けながら、鋭い剣戟を放つ。教経もまたこれを防いだ。速さも力もすべてが互角であった。そのことは刃を交えている二人が嫌という程わかっていた。このままでは埒が明かない。二人に焦りの色が見えたその時――ずうんという大きな音と共に、橋が激しく揺れた。
「なんだ!?」
教経と少年が同時に音のした方へ目を向けると、なんと橋の中央で大きな体の弁慶が大の字になって倒れていた。その信じられない光景に二人の手は自ずと止まる。
倒れた弁慶の傍らには遮那が立っていた。ぐるりと体をまわし二人の方へ向くと、真正面からまともに月明りを受け、浮き出したように鮮やかだった。そして、二人に向かって凛々しい声で言った。
「武蔵坊弁慶は倒した。これ以上の戦いは無用。二人とも刀を納めろ」
教経も少年も戦いを忘れて、ただ呆然と遮那を見つめていた。
以下続く……